로그인石の階段を下りるたびに、空気が冷たさを増していく。 灯りもなく、声もない。ルメアの地下に広がる“沈黙の迷路”――その最深に、アラーナは足を踏み入れた。 やがて現れるのは、何十という金属製の抽斗(ひきだし)が並ぶ空間。 《オーケストラ》と呼ばれるこの地下契約所には、名札も案内もない。 だが、彼女の足取りには迷いがなかった。 一つの抽斗が、すでに開いていた。 中には、赤い封蝋袋。小ぶりの布に施された五線譜の刻印――《オーケストラ》所属の証。 アラーナは、何も言わずにそれを手に取る。 封蝋を割ると、中には銀貨一〇〇枚相当の契約証と、わずかな記述が記されていた。> 処理対象:カリス=ベルグラード(元王国軍中尉) > 処理形式:即時対応/証拠提出不要 > 報酬額:契約等級S 先払い完了 名前以外に依頼人の記録はない。 だが、アラーナにとってはそれで充分だった。 小さく息を吐き、腰の《ルジェ=ノワール》に指先を添える。 その刃は、まだ沈黙を守っている。 ただし、それは“刃を抜く理由”を得たということだった。 アラーナは、契約証を抽斗の奥に戻す。 そして、金属台の隅にある無音の鈴に、柄の底を軽く触れさせた。 カン―― 乾いた音が、空間に反響する。 それが、沈黙の死神が動き出す合図だった。 倉庫街は、沈黙街のさらに外れにある。 半壊した建物の奥、ひときわ広い空間の中央に、ひとりの男が立っていた。 カリス=ベルグラード。 元・王国軍所属。記録上は死んだはずの兵士。「……やっぱり来たな」 アラーナは返さない。 ただ、ゆっくりと歩を進める。「ここまでだってのは、分かってたさ。 でも、逃げる気にはなれなかった。……理由は、聞かねえよな?」 男は自嘲気味に笑った。 そして、少しだけ顔を上げる。「ずっと名を偽って生きてきた。 でもさ――死ぬときくらい、本当の名で終わりたかった」 静かに目を閉じ、言葉を紡ぐ。「……カリス=ベルグラード。それが、俺だ」 その瞬間、アラーナの手が柄に触れた――が。 刃を抜くまでの動作が、わずかに遅れた。 迷ったのではない。 だが、男の名が静かに空気に滲んだその一瞬―― アラーナの中で、何かがふっと揺れた。 “名を告げる者”を前に、名も声も持たぬ自分が、刃を向けようとしている。
部屋の灯りは落としてあった。 窓の外に、夜の街がある。けれど、アラーナの視線はそのどこにも向いていなかった。 壁に背を預け、ソファに深く腰を下ろしている。 目は閉じていたが、眠ってはいない。呼吸は浅く、指先はわずかに膝をつまんでいた。 ――子どもたちの歌が、まだ耳に残っている。 今夜、通りすがりに聞いた声。 それは、ただの遊びに見えた。 けれど―― なぜだろう。 あれを聞いたとき、心の奥に、何かがざらついた。「……女神、ね」 呟いた自分の声に、自分自身がわずかに戸惑った。 目を閉じたまま、思考が沈んでいく。 深く、冷たい水の底へ。 ――手を引かれていた。 かすかな記憶だ。誰の手かもわからない。 でも、温かかった気がする。 夜。毛布。誰かがそっとかけてくれた。 眠っているふりをしていたけれど、本当は起きていた。 呼ばれるのを、待っていた。 フェイが、昔こんなふうに尋ねたことがある。 「ねえ、アラーナって、本当の名前なの?」 そのとき彼女は、こう答えた。 「わからない。でも、そう呼ばれたから……それでいいと思ってる」 あのとき、自分は何を思っていたのだろう。 思い出そうとしても、記憶の中身は霞んでいた。 けれど、そのやりとりだけは、確かにあったとわかる。 そのあと――誰かが、そっと笑った。「名前はね、呼んでくれた人がいれば、それで十分なんだよ」 今度は、大人の声。 女の人。優しくて、揺らがなくて、どこか、遠くを見ているような響き。 ……あれは、ステラ院長だった。 アラーナは、目を開けた。 夜は変わっていない。 けれど、胸の奥が、少しだけ、熱かった。 ――名前。 誰かが、自分を呼んだ気がする。 けれど、顔も、声も、思い出せない。 名前すら、わからない。 それでも、自分はたしかに、“誰かに呼ばれていた”。 手が、無意識に胸元に触れた。 冷たい布地の下で、脈が、わずかに速まっている。「……違う。“ない”んじゃなくて、見ないようにしてただけ」 アラーナは、そう呟いた。 記録はない。記憶もない。 でも、確かにあった――“声”が、自分を呼んだ夜が。 言葉にならないまま、時間が過ぎていく。 アラーナは、そのままソファに身を預けた。 閉じたまぶたの裏に、名も知らない“誰か”の手の感触だけ
雨はとうに止んでいた。 けれど、ルメアの石畳はまだ濡れていて、踏みしめるたびにかすかな音がした。 硬質なピンヒールが、その音を縫うように静かに響く。 黒いロングコートの裾が、風のない夜に揺れていた。 アラーナ・ノクターン―― 今、この街でその名を口にする者はいない。 地下ギルド《オーケストラ》の帳簿には、ただ一行だけ、担当者として“死神”の記載があるだけだった。 それで、充分だった。 依頼はすべて《オーケストラ》を通す。 署名のない紙片、報酬の明記された契約、対象の記録。 そこに相応の金が支払われていれば――彼女は動く。 祈りでは刃を抜かない。 動くのは、対価が“死”に値すると彼女自身が認めたときだけだった。 一年。 セレスタ・ホームを後にした日から、ちょうどそれだけの時が過ぎていた。 彼女は手を合わせ、ひとつずつ土をかぶせ、最後に全員の名を心に刻んだ。 誰にも名を呼ばれなかった子どもたちの、無言の供養。 それは記録されない葬送だったが、たしかに、祈りのかたちだった。 路地裏の奥から、声が聞こえた。 ――笑い声? 違う。歌だった。 子どもたちの、どこかおかしな節回しのわらべ歌。「めがみさま、めがみさま」「くびだけでいいの。なまえはいらない」「あのひとのこえ、もう ききたくないから」 アラーナの足が止まる。 振り向かない。ただ、耳だけがそちらに向いた。 ――あの夜、フェイが聞かせてくれた祈りに似ている。 誰かの名前を出すのが怖くて、ただ“消えてほしい”と願う――それが、あの歌のかたちだった。 子どもたちは、それを遊びに変えていた。 遊びのふりをして、祈っていた。 その路地を曲がらずに、彼女はそのまま歩き出そうとした。 だが、壁の一枚に貼られた紙片が、目に入った。 濡れて破れかけた、小さな、子どもの手紙。 ――『あの人の名前を消してください。声を聴きたくないの』 指先がわずかに動いた。 けれど、触れなかった。 これは依頼ではない。 対価もない。記録もない。署名も、保証も、ない。 これはただの――祈りだ。「……私は、死神だ」 呟いた声は、誰にも届かない。 けれど、その声は彼女の中にだけは、深く、冷たく沈んでいった。 再び歩き出す。 雨音はない。子どもたちの歌も、遠ざかっていく。
風は止んでいた。 熱も煙も、すでに夜の静けさに吸われていた。 墓の前に、アラーナは立ち尽くしていた。 昼間の土が冷え、足元を沈める。靴の裏に、わずかに湿り気が残っているのを感じる。 《ルジェ・ノワール》はまだ解放されたまま、院長ステラの墓標に立てかけられていた。 漆黒の柄と弧を描く刃が、月の光に濡れて淡く光っていた。 何も考えていないつもりだった。 けれど、思考の隙間から、何度も呼びかける声が蘇る。 フェイ。リオ。ナナ。 あの夜、戻らなければよかったのかもしれない。 自分がこの場所に帰ったせいで、あの子たちは巻き込まれた。 穏やかに続いていた日々に、壊れた影を引き込んでしまった。 “死神”は、最初から誰のそばにもいてはいけなかった。 アラーナは、ひとつだけ小さな布の欠片を拾っていた。 あの日、リオが巻いていた、染みのついた赤い腕布。 それをポケットに入れたまま、ずっと握っていたことに、今になって気づく。 遠くで、鳥が一羽だけ鳴いた。 そしてまた、夜がすべてをのみ込んだ。 「……名前なんて、もういらない」 かすれるような声がこぼれた。 それは、願いでも拒絶でもなく――ただの独白だった。 ステラの言葉が、ふいに胸の奥で揺れた。 『ノクターン家はね、ずっと記録を守る家だったの。でも、それを武器にすることだけは、どうしても受け入れなかった。名前じゃない、“記すこと”と“守ること”の意味を、最後まで信じた一族だった』 アラーナの視線が落ちる。 焼け焦げた地面の下には、かつてこの家にいた人々の暮らしがあった。 祈りのように、積み重ねられていた日々が。 ――王国にとって、記録はただの兵器だった。 けれどノクターン家は、それを“語るため”に遺し、“壊さないため”に守った。 それが粛清された理由。 老騎士が命を賭して守ったもの。 ステラが探し出し、手渡してくれた真実。 そして――自分が、ずっと忘れていたこと。 アラーナは目を閉じた。 記録も記憶も燃えてしまったこの場所で、 “受け継いだはずのもの”が、まだ胸の奥に残っている気がした。 「私は……アラーナ・ノクターン……」 その声には、震えもなければ確信もなかった。 けれど、それは音として、静かに朝の空気に滲んでいった。 王都の地下、記録処理局。 魔術式の
数日が経っていた。 あの日、空気の底に沈んでいたような“異物の気配”は、それきり現れることはなかった。 けれど、アラーナの中には、拭いきれないざらつきが残っていた。 セレスタ・ホームの暮らしは、変わらず穏やかに流れていた。 子どもたちは外で鬼ごっこをし、ミナは新しい歌を覚え、リオは半分焦げたパンを得意げに差し出した。 笑い声は絶えず、陽射しは暖かく、薪の煙はまっすぐ空にのぼっていた。 それでもアラーナは、ひとりだけ違っていた。 朝の草木を踏む音がわずかに軽いこと。 物陰に消えた鳥の群れが戻ってこないこと。 いつも吠えていた犬が、門の前でじっと沈黙していたこと。 そのすべてを、彼女は“気づかないふり”では済ませられなかった。 ある朝、ナナが声をかけてきた。「アラーナ、ごめん。今日はお願いしてもいい?」 手には、いつもの買い出し袋。 ナナは少し困ったように笑って続けた。「リオがちょっと熱っぽくて……私が側にいようと思って」 アラーナは無言のままうなずいた。 袋を受け取る彼女の動きに変わりはない。 ナナはその様子に、少しだけ申し訳なさそうな顔をして、言葉を添えた。「……ごめんね。ほんとは、私が行くべきなんだけど」 買い出しの帰り道、アラーナは丘のふもとを抜ける小道を歩いていた。 草花の香り、鳥の声――いつもの風景。けれど、それはあまりにも“整いすぎて”いた。 ――違う。 空気が、冷たい。 風が止まっているのに、肌をなでる感触がある。 喉の奥を、鋭い違和感が刺した。 それは声にならないまま、全身を貫いた。 ――何かが、壊れている。 その瞬間だった。 「――ッ!」 爆音。 山裾の向こう、セレスタ・ホームの方向から、轟音が空を裂いた。 炎のにおい。煙が、木々の向こうに立ち上る。 視界に赤が混ざるだけで、全身の血が逆流するような錯覚。 アラーナの足が止まったのは、一瞬。 次の瞬間には、腰の背に手を伸ばしていた。 「コード開放――ヴェルサ・ファタール」 小さく詠んだ声とともに、手にした小鎌が光を帯びる。 宙へと投げられたそれは、黒煙を巻きながら空を裂き、巨大な刃へと変貌した。 ルジェ・ノワール――死神の鎌。 アラーナはそれを背に、音をも置き去りにする勢いで駆け出した。 足音は土を穿ち、空気が裂
穏やかな日が、いくつか続いた。 セレスタ・ホームの朝は早い。 薪を割る音、鍋の湯気、子どもたちのはしゃぎ声――そのひとつひとつが、アラーナにとっては異世界のようだった。 けれど、彼女はその日常の輪に、少しずつ、入り込んでいた。 朝食前の仕込みで、リオと並んで薪を運び、 針仕事の時間にはナナの手元をじっと見て、見よう見まねで糸を通す。 ミナの髪を結いながら、どんな言葉をかけるべきかわからずに、ただ静かに手を動かした。 子どもたちの声が響くたびに、アラーナのまなざしはわずかに揺れた。 彼女の中で、何かが少しずつ解けはじめていた。 そんなある昼下がりのこと。 フェイが古本を運んでいると、アラーナがそれを無言で手伝い始めた。 彼女は背表紙をなぞるように見て、整然と並べていく。 まるでその静けさが心地よいというように、子どもたちも一緒に並べはじめた。 並べ終えた本棚の前で、ミナがぽつりとつぶやいた。「……アラーナって、本とか読むの?」 アラーナは少しだけ首をかしげる。「読むこともある」 それだけだった。けれど、ミナは笑った。「じゃあ、今度一緒に読んで」 アラーナは何も返さなかった。けれど、その横顔に、ほんのわずかな、柔らかい影が差した。 その様子を見たリオが、パンを焼いていたナナのところに顔を寄せる。「なあナナ……今、見たか? アラーナ、笑ってたぞ」 リオは声をひそめながら、少しだけ得意げにささやく。「……あの感じ、なんか昔の空気に戻ったみたいだったな」 ナナがそっと笑い返す。 少し離れた場所で、その雰囲気を感じ取ったアラーナは、ふと視線を窓のほうへ逸らした。 けれど、その動きには、もはやぎこちなさはなかった。 その夜。 すべてが静まり返った廊下を、アラーナはひとりで歩いていた。 何かに呼ばれたわけでもない。ただ、眠りの中に潜む異物を、本能が感じ取っていた。 廊下を抜け、玄関に近づいたとき、風もないのに空気が少しだけ冷たく感じられた。 扉が、ほんのわずかに開いていた。音もなく、わずかな隙間が、そこにあった。 アラーナは扉に手をかけ、外を見やる。 足音も、人の姿も、何もなかった。 ただ、踏みしめられた土だけが、微かに形を変えていた。 “誰か”がいた。 けれど、それは夜気に紛れるように消えていた。 翌日